大学院での学びと、学校の当たり前
今月、ある小学校で行われた研究会に参加しました。
「こういう実践、すてきだ。自分もやってみたい!」とすぐに飛びついてしまう私。
一緒に参加した現職院生との対話で、浅はかな考えであったことに気づかせてもらいました。
「私が2年間で経験した大学院での学びがどうだったかを振り返る」
私にとって、これが一番シンプルで分かりやすい。
例えば、大学院では何をどう学ぶかは強制されません。
大学院では、年齢、経験、考え方、価値観、いろんなことが違う多様で多数の人と語り合う中で、自分と向き合い、自分が追究したいことを考えていきました。自分が追究したいことは、そんなに簡単には見つかりませんでした。「偶キャリ」ではありませんが、偶然何かのきっかけで、何かと何かがつながって、見つかったりすることが多いのかもしれません。でもそれは、「見つかった」と思ったら、「やっぱり違うかも」を繰り返せる環境があったからだと思います。
大学院では研究室を変えることもできます。学ぶ上で、固定された座席や班はありません。
単位取得のためには、「できるようになるまで必死に繰り返し暗記する」必要はありません。
自分で調べてもいいし、誰かと相談してもいいし。そして、自分なりの考えを、時間をかけて創り上げ、レポートとしてまとめました。
学ぶ場所は大学の校舎内だけではありません。必要があれば自分で学びをつかみとるために外に出ました。(オンラインも含めて)
学校の当たり前の多くは、実は子どもたちを苦しめている。または、子どもたちに苦しいとさえ感じない人とさせているような気がします。
学校の当たり前・・・ 例えば、
授業の最初と最後は子どもたち全員が先生の方を見て礼で始まり礼で終わる(ダメだとやり直し)
年齢の同じ人と一緒に学習する
クラスや座席の固定
班活動で安心感がアップ
全員の絵や習字が掲示される
体育以外の授業中は水やお茶を飲んではいけない(体育の授業中も先生の許可があったときだけ飲んでよい)
従順な子どもが素直でよい子
多くの人と少し違う子どもは「特別な支援が必要」とされる
困ったら先生に相談する
何かあったとき自分たちで解決するよりも先生に報告することが大事
黒板に書かれたことはきちんとノートに書き写す
先生から与えられたことを考え最終的に暗記する
テスト中は何も見てはいけない
テストの点数が良いことがよい
自学は全員がして当然
学校は正解を与えられる場所
など。
今回の研究会に参加して考えたことは、総合的な学習の時間をどうすればよいか、ということです。異年齢、異学年で学び合う。自分の追究したいことに向かう。必要があればチームを組んだり、外とつながったりする。
大学院で私がどう学んできたかを考えれば、方向性がはっきりしてきました。