『Nabeちゃんの学び』の足跡

自分の中の当たり前や思い込みを見つめ直していきたいと思います。

学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか その3

 

 

学校というか・・・

学校の教科書の中の学習は、多くの人にとったら退屈なもの。

ということを受け入れた上で、この本の「なぜ」を、この本の言葉を借りながら自分なりに考えてみました。

(以下に出てくる教師は、主に私自身のことです)

 

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・学校の教科書の中の学習は、多くの人にとったら退屈なもの。

 でも一部の人はワクワクするものなのかもしれない。教師はその一部の人であるのかもしれない。

 

・学校の教科書の中の学習は、多くの人にとったら退屈なもの。

 教師はそれを全面的に肯定すれば、自分が教師としての存在する意味はなくなってしまうのではないかと思ってしまう。だから、ワクワクするような授業を構成しようとする。つまり、意図的になる。そして、教育が子どもたちを変えようとするお節介な営みとなり、そこに教師の権力が作用し、組織化されることで、子どもたちとっては退屈なものとなる。しかし、自分の中では魅力的なものになっていると教師は思っているかもしれない。

 

・学校の教科書の中の学習は、多くの人にとったら退屈なもの。

 なぜなら、その学習が、将来どのように役に立つのか明確ではない。それに関して教師は何とかして子どもたちを納得させようとするが、現実的ではないことを自覚している。私たちの知識・技能は高度に文脈依存的で、領域固有的だから。

 

・学校の教科書の中の学習は、多くの人にとったら退屈なもの。

 だから、「定期試験があるから」「入試があるから」という理由で勉強をする子がいてもいい。しかし、教師は「教育の目的」を見失ってはいけない。本末転倒した学習となってしまっている子どもがいたとしても、将来的にその子が新しい世界に目を向けチャレンジするきっかけとなるかもしれない。

 

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私なりの今の時点の納得解・・・

退屈だからこそ、大切なのではないか。その子が学びたいと思ってはいないことに、その子にとって大切な学びが存在しているのかもしれません。だから、「その子の好きなことや興味のあることだけ」を個別最適化と捉えてしまうのは、とても危険だと思いました。

私自身、この本の後半にあるAIやグローバルな世界のことに関しては、極端な言い方をすれば「退屈」しながら読んでいたかもしれません。でも、この本の後半にこそ、私がまだ気づいていない学びがあるのかもしれません。読書会では「後半が特におもしろい」と話をされていた方もいました。私が本当に求めていることとつながる何かに出会えることを期待し、もう一度、後半を読んでみたいと思います。