『Nabeちゃんの学び』の足跡

自分の中の当たり前や思い込みを見つめ直していきたいと思います。

小3の息子と一緒に勉強をしていて、「氷」という漢字の書き順を初めて知りました。

 

漢字の書き順なんて、将来役に立つことはあまりありません。

 

でも私は大切にしています。

 

なぜなら、正しい書き順で書くと、きれいに書けるし、字に魂を込めやすくなります。

 

私の数少ない特技の1つが、硬筆です。

 

硬筆検定ももっています。

 

一斉授業をしていた頃は、黒板の字はできる限りきれいに書こうとしていました。

 

でも、数学の授業で「氷」という字を使うことは、たぶんありませんでした。

 

意外なところに自分がまだ気づいていないことがたくさんあるのかもしれない、と思いました。

「夢みる小学校」上映会(その3)

映画を見て思ったことをつらつらと・・・

 

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子どもたちから「こういうことがしたい」という声があがる。

 

やりたいことはきっと夢中になれると思う。

 

すごくいい学びが生まれると思う。

 

そういう声があがるということは、したいことができたという経験があるからなのか。

 

したいと言っても、それが実現できない。

 

それが繰り返された結果、「こうしてほしい」と言う子どもが増えたのではないか。

 

やりたいことを、思いっきりすることができる場所が学校であってほしいなあ。

「夢みる小学校」上映会(その2)

映画を見て思ったことをつらつらと・・・

 

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子どもたちが大人になって、自分の小中学生のときを振り返ったとき、

 

「苦しいことをさせられた」のではなく、

 

「楽しいことがいっぱいできた」となっていてほしい。

 

5教科の学習が必要ないとは思っていません。

 

それぞれの教科には、学ぶ意味や価値は必ずあります。

 

ただ、好きなことに取り組む中で、5教科の学習が必要となってくるから学ぶ、という流れになっていたら、学習することも「楽しいこと」にきっと入ってきて、すてきだなって思いました。

 

だから、同じ学年の人が、同じタイミングで、同じことを学んでいることが、「苦しいことをさせられた」となっているのではないかと思います。

 

そして、知識を暗記すること。子どもたちはとても苦しそうです。

 

忘れたら調べて、思い出せればいいと思いませんか。ポケットからスマホを出して、すぐに調べられる時代です。

 

暗記することなんて、AIに任せた方がいい時代です。むしろ、AIを使いこなしていく方が大事な時代です。

 

テストや受験にしか役立たない暗記を、学校は子どもたちに強制しています。

 

といっても、すぐにテストや受験がなくなったりしません。

 

だからこの現状で、子どもたちの幸せのために私ができることは何かを考え、実行していきたいと考えています。

 

そういった意味では、今やっていることの方向性は間違っていないのかな、と思いました。

 

まだまだですが。本当に。

 

もっといろんな方との対話が必要。もちろん、目の前の子どもたちとも。

「夢みる小学校」上映会(その1)

私の住む小千谷市で「夢みる小学校」の上映が今日から始まり、見てきました。

 

映画が始まる前のスタッフの方のお話にまずは感激。

 

「子どもファースト、親子ファーストの上映会にしたい」ということで、小さい子がいても気軽に参加できる上映会となっていました。

 

だから、子どもたちは上映中におしゃべりをしてもよいのです。

 

だけど、集中して見たい人もいるから、そういうときは「お気づきの方が優しく援助してほしい」とのことでした。

 

私は、「お気づきの方が」としている点がすてきだと思いました。

 

「そういうときはスタッフに声をかけてください」ではなく、

 

スタッフを含めて、ここにいるみんなで上映会をつくっていこうという気持ちが伝わってきました。

 

「温かい地域で、子どもたちが伸び伸びと育っていく小千谷にしたい」

 

そんな願いが、そんな雰囲気が、とてもすてきでした。

 

そして、映画が始まりました。

 

後ろの方にいた子どもたちの声などはまったく気になりませんでした。

 

「話をしてはダメだよ」ではなく、「話をしていいんだよ」となっていたから?

 

最後は感想シェア会もあり、たくさんの刺激をいただきました。

 

映画を見て、初めて会う方との対話が最高でした。

 

今後、私が考えたことを少しずつまとめながら投稿していこうと思います。

 

スタッフの皆さん、一緒にお話をしてくださった皆さん、今日はありがとうございました。

素の自分の成長

我がクラスの生徒たちの『挨拶』を見た人は、ひどいなあと思う人もいることでしょう。

 

ここでいう『挨拶』は、朝学活での「おはようございます」や、終学活での「さようなら」といった、みんなで一斉に行う挨拶です。

 

我がクラスのあいさつは何がひどいかというと、きちんと前を向いていない人もいる、声を出していない人もいる、それどころか私語しながら変な方向に礼をしている、という感じで適当に流している人もいます。

 

でも私はそれでいいと思っています。それが偽りのない本当の姿なのだから。

 

大事なときに、大事な場面では、きちんとできればいいのではないでしょうか。

 

例えば、卒業式など。

 

私の前では、つくった自分ではなく、素の自分をさらけ出してほしい。

 

だから、人によって、場面によって、態度を変えてもいいのではないか。

 

むしろ、上手に変えられる人ほど、よりよく生きられるのではないか。

 

だけど学校は、いつも「こうでなければならない」ということが多くて、

 

「ルールはどうなっているんだ」と言って、

 

ルールを見直し、強制しようとする傾向が強いように感じる。

 

過去と他人は変えられません。

 

もし他人を変えられるとしたら、その人がどういう集団に属しているかがポイントとなるのだと思います。

 

自分が自分でいられる。そして、周りからの影響で素の自分がいつの間にか成長している。

 

だからこそ、焦らず、中・長期目線でいきたいものです。

見透かされていたのかも

私には、理想の『学び合い』のイメージがあります。

 

でも、それを生徒たちに強制したくない。

 

だから、待っていた。

 

私の願いをいろんな表現で伝えながら。

 

でも、最近はなんだか伝わっていない感じがしていた。

 

そして、クラス全体で考えると、『学び合い』にならなくなってきた。

 

見透かされていたのだろうか。

 

強制したくないからこそ、うまく話そうとして、私の本気度が下がっていたのかもしれない。